ベラルーシ共和国 歴史
ベラルーシが国家として成立するのは20世紀になってからであるが、19世紀末には民族自決をもとめる運動が高まっていた。
ロシア帝国崩壊後の1918年3月、ベラルーシは民主共和国を宣言したが、まもなくボリシェビキ(→ ボリシェビズム)によって解体され、19年1月には、ボリシェビキによってベロルシア(白ロシア)・ソビエト社会主義共和国の成立が宣言された。
20年、ポーランドが旧領土を回復するためベラルーシに侵入し、ソビエト・ポーランド戦争がおこった。
ソビエト軍はワルシャワでポーランド軍に大敗し、ポーランドは21年にリガ条約に調印してベラルーシの西部地域を獲得した。
残りの国土は、22年にソビエト連邦の構成国になった。
現ベラルーシ共和国の領土は、9世紀にキエフ公国(→ キエフ・ロシア)の支配下にはいったが、1240年タタール人が、当時のスラブ文化の中心地キエフを破壊し、キエフ公国は消滅した。14世紀には、ベラルーシをふくむ広範な地域がリトアニア大公国の支配下にはいった。
10-12世紀 キエフ・ルーシ時代
13-14世紀 リトアニア大公国の構成地域となる
1386年、リトアニアのヨガイラ(ヤギエウォ)大公がポーランドと連合してポーランド王となり、ベラルーシはポーランドにくみいれられた。
1569 ポーランドとリトアニア大公国の連合国家成立
1569年、リトアニアとポーランドが統合すると、その一部になったが、この後18世紀にかけて、この地域はポーランドとロシアの抗争の地となった。
1772 第一次ポーランド分割により、白ロシア東部、ロシア領となる
1793 第二次ポーランド分割により、白ロシア中央部、ロシア領になる
1795 第三次ポーランド分割により、白ロシア西部、ロシア領になる
1772年、93年、95年のポーランド分割(→ ポーランドの「歴史」)によって、ベラルーシはロシア領となったが、1812年、ナポレオン1世がひきいるフランス軍が侵入すると、ロシア人がこの地から撤退したため農地は放置され、荒廃した。
19世紀末までこの地域は極度にまずしく、ベラルーシ人の多くがシベリアやアメリカ合衆国に移住した。
1919 白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国の成立
1921 ポーランド・ソヴィエト戦争の結果成立したリガ条約により、白ロシアの東半分がソ連領、西半分がポーランド領となる
1922 ソ連邦の結成に参加
1939 ソ連軍ポーランドに侵攻し西半分を占領(同年9月)、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきポーランド西半分を白ロシア領に編入
1986.4.26 チェルノブイリ原発事故により多大の被害
1991.8月 独立
1939年にポーランドがドイツにやぶれると、ソ連がベラルーシの西部地域を奪回し、ベロルシア・ソビエト社会主義共和国にくみいれた。第2次世界大戦中は独ソ両軍の主戦場となり、41年6月に侵攻したドイツ軍はベラルーシの地を徹底的に破壊した。
45年に第2次世界大戦は終結し、ポーランドに割譲された一部地域をのぞいて39年当時のベロルシア・ソビエト社会主義共和国の国境は、ポーランドとソ連との条約締結によって確認された。同年、国際連合が創設され、ベロルシア・ソビエト社会主義共和国はその原加盟国になった。
1991年にソ連の共産主義政権が崩壊すると、独立してベラルーシと改称した。この新国家は、独立国家共同体(CIS)の創設にあたって主導的な役割をはたし、91年12月には最初の独立国家共同体サミットを主催した。
1993年、ベラルーシの最高会議は第1次戦略兵器削減条約(STARTⅠ)と核拡散防止条約(NPT)を批准し、すべての核兵器を96年までに全廃することを宣言した。
94年1月、最高会議は議長のシュシケビチを解任した。政府の汚職を抑制できなかったことによる解任とされているが、ロシア寄りの立場をとっていたことも要因になった。
シュシケビチにかわって保守派のグリブが最高会議議長に就任し、
94年3月には新憲法を採択して核をもたない中立国を宣言した。
1994年7月には初の大統領選挙が実施され、ポピュリズムを標榜するルカシェンコが、現職の首相ケービチを大差でやぶって当選した。
ルカシェンコ大統領は、ロシアと緊密な経済関係をむすぶことにより、ロシア・ベラルーシ2国の経済統合をめざしているが、ロシアに大きな発言力をあたえる結果になると主張する反対派の抵抗にあっており、一方ロシア側にも、経済力のないベラルーシとの統合がロシアの経済混乱に拍車をかけるのではないかという懸念があり、反応もにぶい。